世界遺産 集成館と仙巌園の反射炉をおさんぽ【おさんぽ番外編】

仙巌園と噴火中の桜島

鉄腕ダッシュが大好きでずっと見続けてきた。
一番頼りになる棟梁だったのに。作りかけの反射炉はどうするんだろう。4人でちゃんと最後まで作ってくれるんだろうか。
待っててほしい、続けてほしいと思う。4人自身のためにも。TOKIOは、農業を土木をエンターテインメントにまで開拓してきたパイオニアじゃないか。

そういえば、私は江戸末期に作られた反射炉跡を2年前に見ていたのだった。

その反射炉を作ったのは、先週「西郷どん」で遺言を残した殿、薩摩の第28代当主 島津斉彬公だ。今日はそれを書こうと思う。実家と田んぼ以外予定のないGWだし・・。

島津家の旧別邸をおさんぽ。

東京から九州まで2時間のフライト。鹿児島空港から霧島へ向かい、ニニギノミコトを訪ねて初日はとことこ歩き回った。その夜は、その昔島津家の避暑地だった霧島いわさきホテルに泊まった。島津の殿様や龍馬や小松帯刀も入った秘湯「栄之尾温泉(ホテル開業時に緑渓湯苑と改称)」を擁するホテルだ。
(なんと、今回これ書くために調べていたら昨年11月に休館してました。あらまー。もう緑渓湯苑は見れなくなったのか・・惜しいのう。)

龍馬の湯 栄之尾温泉栄之尾温泉(緑渓湯苑)
翌日は九州JRに乗り、鹿児島湾沿いに桜島を見ながら鹿児島市内を目指した。
どうも地元の人は鹿児島湾とは言わず、錦江湾と呼ぶらしい。名の由来は江戸初期の島津の殿様が詠んだ歌だとか。親しみを込めて錦江湾と呼ぶ。現地の観光マップには堂々と錦江湾と記されてて、頭の中が???だった。あれ、ここは鹿児島湾じゃないの? ここはどこ、私は誰状態(笑)
その錦江湾もしくは鹿児島湾は海であるものの、桜島がどんと鎮座ましましているので、まるで湖のように波静かだ。

この桜島を築山に錦江湾を池に見立てるという、実にスケールが大きい借景を持つ島津家の磯別邸を目指した。仙巌園(せんがんえん)である。

鹿児島中央駅から「まち巡りバス」に乗って、一番遠い仙巌園まで最初に行ってしまおうと考えた。それから駅に戻る形で途中下車しながら、いろんなところ、西郷さんの最終地とか鶴丸城などを見ようというプラン・・だったはず。
なんの予備知識もないまま、単に風光明媚な大名庭園だと思って行ったので、こんなに仙巌園に惹かれるとは思わなかった。ただただ圧倒されてしまったのだった。幕末の日本人のすごさに。明治維新を牽引したのがなぜ薩摩だったのかに。結局、仙巌園、集成館、異人館を見ただけでもうタイムアップだった。

西欧列強のアジア植民地化に募る危機感。

ご存知のように薩摩は、日本の西南端に位置する。種子島の鉄砲伝来やザビエルの来鹿に始まり、イギリス人との銃撃戦になった宝島事件やアメリカ船モリソン号事件など、ペリーが横浜に来航する30年も前から薩摩は常に西欧列強の脅威にさらされてきた。さらに清がアヘン戦争で破れると、頻繁にイギリス・フランス艦が来るようになり、薩摩に通商と布教許可を求めた。
事件は会議室(江戸)で起こってるんじゃない。現場(薩摩)で起こってるんだ! 薩摩の焦りは江戸の比じゃなかったろう。

斉彬の父・斉興の時代からこういった列強に対抗すべく軍備の強化・近代化は始まってはいたが、まったく手ぬるいと感じていたのが嫡男の斉彬だった。斉彬は蘭学に精通して世界情勢をよく知っていた。お家騒動の紆余曲折を経て、40歳を過ぎてやっと藩主の座に着くと、即改革を始めた。藩主になった翌年には反射炉を作っている。

仙巌園の敷地内に反射炉を作る。

仙巌園マップ

仙巌園の入り口を入ると、まず鉄製150ポンド砲が出迎える。鹿児島沿岸に配備された大砲を忠実に復元したものだ。約68kgの鉄製の丸い弾を約3km飛ばす威力があった。風光明媚な庭園だと思って入ったら、いきなり面食らった。いや、風光明媚なんだけどね。

仙巌園の鉄製150ポンド砲

大砲の後ろに見える石垣が反射炉の跡地だ。
反射炉とは、大砲製造のために銑鉄(せんてつ)を溶かして大砲の鋳型に流し込むための炉である。列強の艦船から国を守るには、大型カノン砲を備えた要塞が必要だと斉彬は考えていた。

仙巌園内に作られた反射炉跡ヒュゲニンの反射炉図

オランダ人ヒュゲニンの本だけを頼りに、在来の石工技術で切石を組み、薩摩焼の陶工に耐火レンガを作らせ、純国産で作っている。一号炉は失敗に終わるが、完成した二号炉で大砲を製造した。

看板に書かれていた説明を以下に書き写しておく。
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大砲を造った反射炉
反射炉は、火床(ロストル)で燃料(石炭または木炭)を燃やし、その熱を壁に反射させ炉床の銑鉄を溶かす施設です。日本では主に大砲鋳造のために築かれました。現在残されている遺構は、安政4年(1857)5月に完成した2度目の反射炉の基礎部分であると考えられ、2炉を備えていました。数万個の耐火レンガを使った炉の重量に耐えるため頑丈な石組がなされています。また湿気があると炉の温度が上昇しないため、炉全体にすのこ状の石組を設けて空気層をつくり、炉の周囲には地下水を断ち切るための溝が掘られていました。
炉の構造
炉は内部が耐火レンガのアーチ積みとなっていました。
炉内は、左側が出湯口側で、溶けた銑鉄が流れ出るところ、右側が燃料を置くところです。炉床の下には通気用の炉下空間(空気層)があり、また炉床はレンガの段数によって勾配をとっていました。
反射炉設計図看板 ―――――――――——————————————————

仙巌園の奥へ進むと妙に頑丈な石垣に囲まれたレストランがある。そこが、その耐火レンガを作っていた場所だったらしい。
一号炉が失敗した原因は、湿気対策が不十分の上、耐火レンガの質も悪く、炉の温度が上がらなかったこと。また、数万個のレンガの重みに耐えられず、炉本体も傾いたこと。薩摩焼の陶工たちがレンガの品質向上に奔走し、基礎部分も頑丈に造り、湿気対策も強化された。

これ、かなり大事なポイントじゃないだろうか。湿気対策。ダッシュ島の反射炉が海にかなり近い場所だから、ちょっと心配です。

さて、仙巌園のさらに奥へ進むと、殿の優雅な御殿生活が垣間見れる。のだが・・・なんだ、これは?オブジェか?

斉彬が作った日本初のガス灯

灯篭にしては相当でかいし、変なカタチ。いったいなんなのか、看板がなかったのでわからずじまいで帰って来たが、この間テレビでやってました♪ ブラタモリ。
日本初のガス灯なのだそう。集成館でガスを研究し実験に成功。御殿の中にガス室を作りここまで引いて灯していたそうだ。横浜のガス灯の15年も前に。

仙巌園の隣に工場群を作る。日本近代化の先駆け「集成館事業」

斉彬は磯のこの地に東洋最大の工場群を築く。その工場群を総称して「集成館」と名付けた。
製鉄、火薬、銃、大砲、造船の軍備に関するものから、紡績、ガラス、写真、電信、ガス灯など、最新技術の事業・研究を盛んに行なった。(紡績も軍備かも。洋式帆船の帆を作りたかったようだ。その試作品が残されている。)
西欧列強による植民地化を防ぐには富国強兵・殖産興業であるという信念のもと、蘭学書のみを頼りに、日本古来の伝統技術を融合させ、気の遠くなるような試行錯誤を繰り返した。江戸時代に、最盛期には約1200人が従事する近代工場群があったということに、ただただ圧倒されましたよ。

そうそう、動力はどうしてたのかというと、ブラタモリでやってた。
水なんだね。磯地区の裏は急な山になっていて、その落差で水車を使ってた。

水はもともと21代吉貴が、新田への灌漑用水と仙巌園への給水を目的として作った用水路だが、それを斉彬は改良していた。大砲の砲身をくりぬく鑽開台(さんかいだい)も、溶鉱炉に空気を送り込む鞴(ふいご)も、水車動力が使われた。

だが、斉彬の突然の死で、この集成館事業は縮小されてしまう。
斉彬と確執のあった父・斉興が29代忠義の後見として復活したからねえ。縮小どころか、集成館は廃止に近い状態にまで追い込まれてしまう。その斉興も翌年没する。

薩英戦争、勃発。鹿児島湾にイギリス艦7隻現る。

斉彬の死後、その遺志を継いだ久光(斉彬の異母弟)は幕政改革を推進するが、薩英戦争が勃発する。
イギリスは鹿児島湾に軍艦7隻を送り激しい砲撃戦となった。斉彬が作った砲台や大砲がイギリス艦と互角に戦わせたというが、鹿児島の街は焼け野原になり、集成館や台場も焼け落ちた。

この戦争で斉彬の政策が正しかったことを痛感した29代忠義は父・久光とともに集成館事業を再興する。

そりゃ痛感もするだろう。斉彬が純国産で作った大砲は飛距離3km。対してイギリス艦の大砲は倍近かったというし、西洋と日本の技術力の差は大人と子ども。それでもイギリス側のダメージは大きかったようで、確かに善戦したのだ。イギリスは相当たかをくくってて、たいした準備もせずに来ており、鹿児島湾の中でもたついたとも・・。桜島があるから狭いんだもんね。一番狭いところは1.7kmしかありません。

集成館再興へ。明治の殖産興業の礎となる。

忠義と久光はすぐ集成館機械工場(現尚古集成館本館)に着手し、その一方で五代友厚(あの五代さまです♡)をはじめとする使節と薩摩スチューデントをイギリスへ留学させた。鎖国中であり、幕府の手前おおっぴらには派遣できないので、名を変えこっそり行かせてるところがなんとも・・。苦心したのねえ。五代には技術者の招聘と紡績機械の購入を交渉させ、2年後、日本初の洋式紡績工場「鹿児島紡績所」が創設された。

尚古集成館本館 こんなに長い建物なのは、中で船の部品など作っていたからだそう。精密機械を温度差から守るため、タモさんが喜ぶ溶結凝灰岩で作っている。石造りなので見かけは洋館っぽいが日本人設計。
尚古集成館本館

旧鹿児島紡績所技師館(異人館)技術指導にあたった英国人技師の宿舎。こちらも日本人設計で、長崎で見た洋館を見よう見まねで作ったらしい。ドアノブの位置が低い。ふすまなど、日本人は膝間づいて扉を開けるため、外人もそうだと思ったらしい。なんかほほえましい。
旧鹿児島紡績所技師館(異人館)

3年契約で日本にやってきた英国人技師たちは、わずか1年で国に帰ったそうだ。別にトラブルがあったわけでなく、たった1年で、もう教えることがなくなるくらい日本人は優秀だったのだそうだ。
もともと勤勉な民族だし、江戸時代は寺子屋がさかんで、識字率は当時から高かったしね。教えを受ける土台はできていたのだろう。確かそんなようなことがパネルに書いてあった気が・・。もう疲れ果てて写真も撮ってないのでうろ覚え(笑)

旧鹿児島紡績所技師館、尚古集成館、反射炉跡は「旧集成館」として2015年世界遺産「明治日本の産業革命遺産」に認定された。
旧集成館の附(つけたり)として他に、水車動力の源泉となった「関吉の疎水溝(せきよしのそすいこう)」と、集成館事業で用いられる木炭を製造するための「寺山炭窯跡(てらやますみがまあと)」がある。

集成館で技術を磨いた人たちは、明治以降、全国へ技師として招かれ、日本の近代化を支えた。

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