自然が癒してくれる。母とマイケルと田んぼの話。

この度の平成30年7月豪雨災害により亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。

田んぼを始めたワケ

6月3日に田植えは終わってたし、その後の除草も終わっている。
でもこの1〜2カ月、母の状態が悪化し、なかなかブログを書く時間がなかった。去年ブログを始めた頃も母の衛生観念が崩れ、介護が新たな段階へ移った時期だったが、ついに介護施設へ預ける段階にまで来てしまった。

田植えの日、食事を終えて会計をしていた時、長年つけてきたマイケルの缶バッジが私のリュックからカツーンと大きな音をたてて石の床に落ちた。一緒にいた友人はなにか悪いことが起きなきゃいいと、内心思ったそうだが、私はまったく反対だった。まるで「もう僕に頼らなくても大丈夫だね。」と言われたようだと思った。
今日は、そんなことを書こうと思う。ちょい暗い話になってしまうけど、しかも長い・・もし興味があったら読んでみてください。

母を医者に連れていくことはできないか模索する日々

母は若い頃から時々ヒステリーを起こしてたが、明らかにおかしい、幻覚だと思ったのがもう彼此20年前になる。私が子どもの時から自分に都合の悪いことはなかったことにし嘘をつくので、そういう性悪な性格なのだと思い込んできたが、どうやらずっと病んできたのじゃないか、本当に記憶を封印するのじゃないかと初めて気がついた。
15年前父が亡くなると、それは被害妄想に発展しひどくなった。母自身が自分で医者に行き抗鬱剤と睡眠剤をもらっていたが、良くなるどころか、どんどん悪化していった。薬はかかりつけの内科から処方されていた。きちんと専門医に診てもらおうと、精神科へ連れていこうにも、本人が激しく拒否をする。母の年代では「精神科」という名称は「キ○ガイ」を意味する。
地元の国立病院精神科に1度は無理やり連れていったが、その怒りは激しかった。

10年前さらに悪化し、同居している長男、特にその嫁を攻撃し家庭崩壊寸前だった。医者を探しまくった。精神科ではないところ、だが精神科の専門医という条件で。東京医科大にはその条件に当てはまる「老年科」があることを知り、市役所からの高齢者検査だと称して連れていった。

名付けて「東京だよおっかさん大作戦」。そういう名称を付けると母も笑って行く気になった。
病院の帰りにはレストランやインテリアショップを盛り込むイベントに仕立てた。インテリアショップには訳がある。この頃、何度かボヤ寸前まで行っている。同居の長男夫婦は火事の恐怖に怯えていた。ガスからIHに換えさせるため、素敵なキッチンを見せつけた。その後も嫁と連携をとり、ことあるごとにIHがどれだけ素敵か吹聴し、最後はIHに換えることに成功した。
脱線するが、車の免許も何年も説得を続け、人を轢き殺す前に返納させることには成功したが、何度もこすっている。が、その事故は、母の中では全部嫁が起こしたことになっている。自分に都合の悪いことは記憶からすっぽり抜け落ち、犯人を別に仕立て上げる。それは彼女の中では真実となる。

加害者だけを守り、被害者や家族を置き去りにする人権

家族の不安は計り知れない。いつ人を轢き殺すか、いつ火事を起こすか怯えて生きているのに、本人だけを守る人権ばかりが先行して、家族には人権は当てはまらないのだ。それを止める手段が、法律がない。
人を轢き殺してしまった高齢者の家族がなにもしなかったと思っているのか。どれほど苦悩してきてるか、わかってほしい。
今は救急車もダメなのだそうだ。救急車で医者に強引に連れていくことも考えたが、救急車の中で本人が降ろせと騒いだら、人権上、降ろすしかないとケアマネは言う。

東京医科大に話を戻すと、検査結果は、MRIやSPECTには異常がない。認知検査にいたっては同年代平均より良い成績だった。医者は薬は不要だと言う。不要だと言われても、母は執拗にかかりつけの医者に抗鬱剤と睡眠剤を出させ続けた。やめさせようとしても泣いてわめいて怒って抗った。

まるで麻薬だと思った。医者と話して抗鬱剤と称してビタミン剤に変えたが、睡眠剤は変えることができなかった。眠れなくなるからだ。結局10年以上飲み続けることになった。抗鬱剤と睡眠剤は症状を悪化させた一因だと私個人は思っている。

家族崩壊

そうこうしているうちに、同居していた長男と嫁への物盗られ妄想の攻撃はますます激しくなり、長男は離婚した。次男と私のところへは1日に何十回もストーカーのような電話。しかも仕事場にかけてくる。次男も、私も、仕事を失った。

仕事を失うと、ストーカーのような電話は今度は携帯にかかってくるようになった。電源を切っておくも、次男ひとりに背負わせるわけにもいかず、たまには出ざるを得ない。携帯の向こうから激しく非難する怒鳴り声が数カ月、1年、と続いた。

働く気力なんかなかった。経済的にも、もう待ったなしの状況に追いこまれていたけれど。
風呂なしのアパートに移り、テレビもない、エアコンもない、チラシ配りや清掃の日雇い派遣で食いつないだ。時々、包丁をにぎりしめたまま、気づくと数時間が経っていた。包丁をにぎりしめた右手は、左手で1本づつ指をはがさなければならないほど強ばっていた。正気に返るとなんとかしなければと自分を鼓舞したが、私も鬱状態だったと思う。でも医者には絶対行かない。薬に頼ったら、私も母のように気が狂う。

マイケル・ジャクソンが死んだ。

2009年6月26日(米時間25日)、マイケル・ジャクソンの死を派遣先の休憩室のテレビで知った。
それまでの長い年月、メディアはずっとマイケルをバッシングしてきた。垂れ流されるゴシップ合戦にうんざりして、その音楽を聴こうともしなかった。それなのにマイケルの死の衝撃が私を貫いた。一種のインスピレーションだったと思う。

その夜からマイケルへの旅が始まった。彼はどう生きたのか、どう死んだのか。夜を徹して毎晩ネットを漁った。

改めて彼の音楽を、ビデオを観ると、文句なしにカッコよかった。なぜスリラー以降聴かなかったのか後悔した。「Will You Be There」のMTVライブでは、こんなに美しく神々しくさえあるのに、その詞はひとりの人間として苦悩し、辛さに耐え、さらに高みに登ってゆこうとする、人間そのものだった。

だが、マイケルの人生はあまりにも壮絶だった。
まず彼自身が2つの難病にかかっていた。ひとつは尋常性白斑。免疫機能が働かなくなりメラニン色素が抜けていく、つまり肌が白くなって行った病だ。今ではウィニー・ハーロウが尋常性白斑を患った「まだら肌のモデル」として有名だが、昔はこの病気が知られてなく、バッシングのネタになった。あとひとつは膠原病、常にその痛みに眠れず不眠症になったと言われている。

そして彼が生み出す巨万の富にむらがり、ゆすりたかりの10年にも及ぶ数多の訴訟。
マイケルは熱心なチャリティー活動家であり、その寄付総額はわかっているだけでも3億ドル。100円換算で約300億円。一個人としてはギネスにも載った世界一の額である。病院をひとつ、まるまるポンと作って寄付したこともある。その範囲はツアーで廻った世界中の国々に及んだ。人道主義のマンデラ氏とは親友とも呼べるほどの親しい間柄だ。
その優しい心に付け入って金目当てで起こされた数々の冤罪裁判。信じていた人たちから裏切られる。それがどれほど彼を引き裂いたことだろう。その上、メディアはマイケルを有罪と決めつけて報道合戦をした。世界中が敵になったのだ。2005年、すべての訴訟に勝訴したが、勝訴したことはあまり報道されなかった。マドンナは追悼でマイケルに対して「魔女裁判」が行われたと表現した。

勝訴はしたけれど、彼に睡眠剤依存症の傷を残した。膠原病の関節の痛みもありいつも眠れなかった。そしてより強い睡眠薬へと変遷し、お抱え医師が打った麻酔剤プロポフォールにより死亡した。

おこがましくも、マイケルに私は人生を重ねた。
ひとりの人間にこれほどの試練を神は与えうるものだろうか。

これでもかこれでもかという彼への試練を知れば、私にふりかかる試練なんて、ちっさいちっさい。「屁」みたいなもんだ。大丈夫。全然がんばれる。私は乗り越えられる。根拠のない自信が、力が湧き上がってきた。

マイケル田んぼとの出会い

そうしてマイケルファンと交流していく中で、2013年から里山保全の田んぼを始めた。マイケルは晩年、環境問題に熱心だった。子ども達に美しい自然を残そうと、提唱していた。

それは、自分の子どもを得て、日々成長する子ども達に美しい地球を残してあげたいという思いだったかもしれない。私もそこに賛同して田んぼに参加した。今年で6年になる。里山保全に参加するという目的だったが、やっていくうちに別の効能が出てきたのがわかった。

どんどんどんどん、自分自身が癒されていくのだ。
鍬を持って、えっちらおっちら汗を流しながら、体力の限り耕してると、その間はなにも考えないのだった。常に頭の中を巡っていた悪い考えが、その時ばかりはまったく考えないですむのだった。「ああ、腰いた〜い」と、腰を伸ばせば、目の前には豊かな緑。青空。山鳥の声。風。気持ちいいとしか思えないのだ。冷たいお茶が、んまい!!

「もう僕に頼らなくても大丈夫だね。」と言われたのだ、きっと

いやなことを忘れている時間が、回を重ねるたびに長くなっていき、2年目には家に着くまで忘れていることができた。3年目には、田んぼに行かない日も考えないですんだりするのだった。
もちろん、その間も、母が元嫁へのストーカー行為で警察沙汰になったり、ケアマネさんを物盗られ妄想のターゲットにしたり、いろいろ波はある。そのたびに、また新たな病院やデイサービスを探して奔走したり、いろいろある。

でもわかったことは、好きなことで体を酷使すること。考える時間を与えないほどに体を動かすこと。無心になること。これはひとつの鍛錬だと思う。それが強い心を育んでいくのだと、自分の経験談から言える。心身の鍛錬と言うが、本当にそうだと思う。そんな中でマイケルの缶バッジがいきなり落ちたのは、ひとつの波は乗り越えられたんじゃないかなと思う。あんな大きな音をたてて、これみよがしに落ちたのだから。きっとそうだ。

先週も母の異常行動で、かなりせっぱつまってしまったことは事実だ。ご近所に相当のご迷惑をかけ続けた挙句、私が母に実家で軟禁されてしまった。これには自分自身も相当動揺してしまった。
それでもやっていけると思う。時に動揺しながらも、即、次の対処に動き出していけるのだから。

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